2025年10月29日
はじめに:サイレントキラー「糖尿病」の正体
「糖尿病」と聞くと、どのようなイメージをお持ちでしょうか?「甘いものが好きだとかかる病気」「食事に気をつけなきゃいけない病気」…そんな漠然としたイメージかもしれません。しかし、糖尿病は、私たちが思っている以上に、静かに、そして確実に、私たちの体を蝕んでいく「サイレントキラー」です。
糖尿病そのものは、初期には自覚症状がほとんどありません。喉が渇く、トイレが近くなる、だるいといった症状が出た時には、すでに病気がかなり進行していることが少なくありません。
この「サイレントキラー」が、本当に恐ろしいのは、その「合併症」です。合併症とは、ある病気が原因で引き起こされる、別の病気や症状のこと。糖尿病の場合、高血糖状態が長く続くことで、全身の血管がボロボロになり、様々な臓器に致命的なダメージを与えていきます。
例えるなら、私たちの体は、たくさんの道路(血管)が張り巡らされた都市のようなものです。糖尿病は、この道路を、ドロドロの排気ガス(高血糖)で満たしてしまうような状態です。最初は何も問題ないように見えても、少しずつ、少しずつ、道路が傷み、渋滞が起き、やがては都市の機能が停止してしまう。そんな恐ろしい事態を招くのが、糖尿病の合併症なのです。
そして、この数ある合併症の中でも、特に注意すべきは「三大合併症」と呼ばれるものです。これは、文字通り、糖尿病によって引き起こされる、特に重篤な3つの病気で、それぞれ「しめじ」と覚えると覚えやすいかもしれません。
し:神経障害 しんけいしょうがい
め:網膜症 もうまくしょう
じ:腎症 じんしょう
これらの合併症は、日本の糖尿病患者の失明、人工透析、足の切断の原因の多くを占めています。今回は、この三大合併症(糖尿病網膜症・糖尿病腎症・糖尿病神経障害)について、なぜ、どのようにして発症し、そしてどのように防ぐべきなのかを解説します。
合併症その1:手足のしびれ、感覚麻痺…「神経障害」
糖尿病性神経障害」とは?
「糖尿病性神経障害」は、糖尿病の合併症の中でも、最も早くから現れることが多い病気です。手足の末梢神経が、高血糖によってダメージを受けることで、様々な感覚異常や運動障害が引き起こされます。
私たちの体には、脳から全身の隅々まで、まるで電気コードのように神経が張り巡らされています。この神経は触れた感覚、熱さ、冷たさ、痛みなどを脳に伝えたり、逆に脳からの命令を筋肉に伝えて体を動かしたりする、非常に重要な役割を担っています。
ところが、糖尿病によって、この神経の周りに「糖」のゴミが溜まり、神経自体も高血糖のダメージで炎症を起こします。例えるなら、電気コードの被覆が溶けて、中の銅線がむき出しになり、うまく電気が流れなくなってしまうような状態です。
どんな症状が出るの?
神経障害の症状は、その「コード」がどの部分でショートしているかによって、多岐にわたります。最も一般的なのは、足の先から始まる感覚異常です。
「足の裏に砂利が詰まったような感覚」
「常に手袋や靴下を履いているような感覚」
「ジンジン、ピリピリと電気が走るようなしびれ」
これらの症状が、足の指先から始まり、徐々に足全体、そして手へと広がっていくのが特徴です。やがては、痛みを全く感じなくなる「感覚麻痺」の状態に陥ります。
感覚麻痺が招く「怖い」事態
「痛みを感じなくなるなんて、楽でいいじゃないか」と思うかもしれません。しかし、これは非常に危険な状態です。
例えば、熱いお湯に足を入れても熱さを感じないため、大やけどを負ってしまうことがあります。また、靴の中に画鋲が入っていても気づかず、何度も刺さって傷が深くなり、そこから細菌感染を起こしてしまうこともあります。
さらに、この神経障害は、足の筋肉のバランスを崩したり、汗のコントロールができなくなったりもします。その結果、足が乾燥してひび割れ、そこから細菌が入ったり、足の変形を招いたりすることもあります。
最終的には、このような小さな傷が治りにくくなり、細菌が骨にまで達すると、「えそ」(組織が腐ってしまう状態)を起こします。えそが進行すると、足を切断しなければ命にかかわる事態になりかねません。これが、糖尿病患者の足の切断が多発する原因なのです。
私と同郷の、元プロ野球選手の佐野慈紀選手は、重症の糖尿病で感染症の合併により、右足の指と右腕を切断されました。スポーツ選手といえども、不摂生な生活習慣により、このような事態を招きます。
神経障害は「氷山の一角」
神経障害は、足や手だけに起こるものではありません。心臓や消化器、泌尿器など、体のあらゆる場所にある自律神経にも影響を及ぼします。
心臓の神経障害:心臓発作が起きても、胸の痛みを全く感じないため、気づかずに重症化する「無痛性心筋梗塞」を引き起こすことがあります。
消化器の神経障害:胃の動きが悪くなり、吐き気や膨満感を引き起こしたり、逆に便秘や下痢を繰り返したりします。
泌尿器の神経障害:排尿の感覚が鈍くなり、膀胱に尿が溜まりっぱなしになる「神経因性膀胱」を引き起こし、細菌感染の原因となることもあります。
このように、神経障害は、全身に静かにダメージを与え続けているのです。
合併症その2:ある日突然、視界が真っ白に…「糖尿病性網膜症」
「糖尿病性網膜症」とは?
「もうまくしょう」は、目の奥にある「網膜」という、光を感じる薄い膜が、高血糖によってダメージを受ける病気です。
網膜は、カメラのフィルムのような役割を果たしています。目から入ってきた光を、網膜が受け取って、電気信号に変え、それを脳に送ることで、私たちは物を見ることができます。この網膜には、非常に細い血管がびっしりと張り巡らされています。
糖尿病によって、この細い血管が、ドロドロの血液(高血糖)で詰まったり、脆くなったりします。例えるなら、非常に繊細な絵画の裏側に、血管という細いインクのパイプが通っているとします。そのインクが、ドロドロの不純物だらけになると、パイプが詰まったり、破裂したりして、絵画を汚してしまうような状態です。
網膜症の進行と恐ろしい症状
網膜症は、その進行度合いによって、大きく3つの段階に分けられます。
単純網膜症: この段階では、自覚症状はほとんどありません。網膜の細い血管が少し膨らんだり、小さな出血が起きたりする程度です。この段階で適切な治療を受ければ、進行を食い止めることができます。
増殖前網膜症: 血管の詰まりがひどくなると、網膜に十分な酸素や栄養が届かなくなり、網膜が悲鳴を上げ始めます。すると、体は、酸素を供給しようと、新しい血管(新生血管)を生み出そうとします。しかし、この新生血管は、非常に脆く、すぐに破れやすいのが特徴です。
増殖網膜症: いよいよこの段階になると、網膜のあちこちに新生血管ができ始めます。この脆い血管が破れると、目の内部で大出血が起こります。これが、「硝子体出血」です。
硝子体出血が起こると、突然、目の前に墨を垂らしたように、視界が真っ暗になったり、虫が飛んでいるように見えたりします。出血がひどい場合は、光を全く感じられなくなり、一瞬で失明に至ることもあります。
さらに、出血が治まった後、その新生血管が網膜を引っ張り、網膜自体が剥がれてしまう「網膜剥離」を引き起こすこともあります。網膜剥離は、緊急性の高い病気で、早期に手術をしなければ、失明してしまいます。
網膜症は、日本の成人における失明原因の第2位です。しかも、初期には自覚症状がほとんどないため、「見えにくくなったな」と気づいた時には、すでに手遅れになっているケースも少なくありません。
合併症その③:体のお掃除機能がストップ…「糖尿病性腎症」
「糖尿病性腎症」とは?
「じんきんしょう」は、糖尿病によって、腎臓の働きが悪くなる病気です。
腎臓は、私たちの腰のあたりに左右に一つずつある、そら豆のような形をした臓器です。その主な役割は、体の中の「フィルター」です。血液をろ過して、老廃物や余分な塩分、水分などを尿として体の外に排出する、いわば「体のお掃除屋さん」です。
この腎臓の中には、「糸球体」という、毛細血管が毛糸玉のように複雑に絡み合った部分があります。この糸球体が、血液をろ過するフィルターの役割を担っています。
糖尿病によって、この糸球体の血管も高血糖のダメージを受け、フィルターが目詰まりを起こしたり、スカスカになったりします。例えるなら、非常に繊細なコーヒーフィルターが、ドロドロのコーヒー豆で詰まったり、逆に穴が開いてしまったりするような状態です。
腎症の進行と恐ろしい症状
腎症も、その進行度合いによって、いくつかの段階に分けられます。
初期腎症: この段階では、自覚症状はほとんどありません。尿の中に、ごくわずかな「たんぱく質」が混じり始めるのが特徴です。これは、スカスカになったフィルターから、本来なら外に出ないはずのタンパク質が漏れ始めているサインです。
顕性腎症: さらに病気が進行すると、尿中のタンパク質の量が増え、体がむくみやすくなります。特に、朝起きた時に、まぶたや足がパンパンに腫れている、といった症状が見られるようになります。
末期腎不全: 腎臓のフィルター機能が、ほとんど働かなくなってしまった状態です。老廃物を尿として排泄できなくなるため、体の中に有害な物質が溜まり、尿毒症を引き起こします。
尿毒症の症状は、吐き気、食欲不振、全身のだるさ、息苦しさなど、非常に苦しいものです。この段階まで進行すると、自分の腎臓の力だけでは生命を維持できなくなるため、代わりに老廃物を取り除く「人工透析」が必要になります。
人工透析とは?
人工透析は、週に2~3回、病院に通い、専用の機械に血液を通し、老廃物を取り除く治療法です。1回の透析に4~5時間かかり、この治療を一生涯、続けていかなければなりません。
人工透析は、命を救う素晴らしい医療技術ですが、日常生活に大きな制約を課すことになります。食事の制限も厳しくなり、水分摂取にも細心の注意が必要です。
糖尿病は、日本の人工透析導入原因の第1位であり、現在、人工透析を受けている方の約4割が、糖尿病が原因です。一度、人工透析を開始すると、腎臓の機能が回復することはなく、元の生活に戻ることはできません。
日本透析医学会の統計調査によると、透析導入時の年齢が60~64歳の糖尿病患者さんの場合、5年生存率は約60%、10年生存率は約30%という報告があります。
透析が始まってしまうと、腎臓移植以外に根本的な治療方法はありません。移植手術の適応は、一般的には65歳以下です。日本ではドナーを見つけることもなかなか難しい状況です。
まとめ:今からできること、そして未来を守るために
ここまで、糖尿病の三大合併症「神経障害」「網膜症」「腎症」について解説してきました。どれも、私たちの人生を大きく変えてしまう、非常に恐ろしい病気です。
しかし、最も重要なことは、これらの合併症は「必ず防げる」ということです。
合併症の最大の原因は、長期間にわたる「高血糖状態」です。つまり、血糖値を正常にコントロールすることができれば、合併症の発症や進行を食い止めることができるのです。
では、具体的にどうすればよいのでしょうか?
定期的な健康診断: 糖尿病は、初期には自覚症状がありません。そのため、定期的に健康診断を受け、血糖値やHbA1c(過去1~2か月の血糖値の平均値)の数値を確認することが、早期発見の第一歩です。
かかりつけ医を持つ: 糖尿病と診断されたら、必ずかかりつけの医師を見つけましょう。医師や管理栄養士と協力しながら、自分に合った治療計画を立て、血糖コントロールを継続することが大切です。
食事療法と運動療法: 糖尿病治療の基本は、薬ではなく、食事と運動です。バランスの取れた食事、適度な運動は、血糖値をコントロールし、合併症を予防する上で、何よりも効果的です。
合併症のチェックを忘れずに: すでに糖尿病と診断されている方は、三大合併症のチェックを定期的に行いましょう。
神経障害:足のしびれや感覚異常がないか、毎日チェックする。
網膜症:年に1回は眼底検査を受ける。
腎症:定期的に尿検査を行い、尿中のタンパク質をチェックする。
「自分はまだ若いから大丈夫」「糖尿病って言われたけど、特に症状ないし」…そう思っているあなたこそ、最も危険な状態にあるかもしれません。「自分だけは大丈夫」と思わず、定期的な検査と日常生活の工夫を続けることが大切です。合併症は、いつ、どのタイミングで発症するか分かりません。
糖尿病は、自覚症状のないまま、あなたの体の中で、静かに、確実に時限爆弾のタイマーを刻み続けています。
そのタイマーを止めることができるのは、あなた自身です。
糖尿病と診断されたら、まずは主治医と相談し、血糖コントロールの目標を明確にしましょう。また、家族や周囲のサポートも重要です。一緒に健康的な生活を目指すことで、合併症のリスクを減らし、充実した生活を送ることができます。
もし不安や疑問がある場合は、遠慮せず医療機関に相談してください。専門家があなたに合ったアドバイスを提供してくれます。糖尿病と上手に付き合いながら、明るい未来を築いていきましょう!
吹田市長野東19番6号
千里丘かがやきクリニック
院長 有光潤介