2025年11月07日

新型コロナウイルス(COVID-19)やインフルエンザウイルス感染症は、高熱や喉の痛みといった急性の症状が治まった後も、しつこい咳だけが長く続くことがあります。
これは「感染後咳嗽(かんせんごがいそう)」と呼ばれる状態で、多くの人を悩ませる問題です。
「感染後咳嗽」とは?
まず、咳が「続く」とはどのくらいの期間を指すのでしょうか?
• 急性咳嗽(きゅうせいがいそう): 3週間未満で治まる咳。風邪やウイルスの急性期にみられます。
• 遷延性咳嗽(せんえんせいがいそう): 3週間以上8週間未満続く咳。
• 慢性咳嗽(まんせいがいそう): 8週間以上続く咳。
ウイルス感染後に問題となるのは、主に「遷延性咳嗽」です。ウイルス自体は体から排除されているにもかかわらず、咳だけが残ってしまう状態を指します。
なぜ咳が続くのか? 3つの主な原因
ウイルスが引き起こす咳には、複雑なメカニズムが関わっています。
主な原因は「気道の炎症」「気道の過敏性」そして「神経の働きの変化」です。
気道に残る「炎症」
ウイルスは、喉や気管支の「気道粘膜」を攻撃します。
これは、気道が「火傷」を負ったような状態に例えられます。
ウイルスという「火」そのものは消えても(ウイルスが排除されても)、粘膜の「火傷の跡」(炎症や損傷)はすぐには治りません。
この損傷した粘膜を修復しようとする過程で、炎症が持続し、気道が腫れたり、粘液(たん)が過剰に分泌されたりします。これが刺激となって咳が続きます。
「咳のセンサー」が過敏になる(咳過敏症)
これが、長引く咳の最も重要なメカニズムです。
私たちの気道には、「咳受容体」という刺激を感知するセンサーが張り巡らされています。
これは家の「火災報知器」のようなものです。
普段は煙や異物(大きなホコリや誤嚥したもの)にのみ反応します。
しかし、ウイルス感染によって気道が炎症を起こすと、この「火災報知器」が非常に敏感になってしまいます。
• 普段: 煙(本物の刺激)にだけ反応する。
• 感染後: 冷たい空気、会話、笑い、香水、ラーメンの湯気など、普段なら何でもないようなごく僅かな刺激にも「火事だ!」と誤作動して、激しい咳き込み(咳反射)を引き起こします。
この状態を「咳過敏症症候群(CHS)」と呼びます。
ムスカリン受容体と気道過敏性
ムスカリン受容体とは?
私たちの気道(空気の通り道)は、単なる管ではありません。
その壁には「気道平滑筋」という筋肉があり、この筋肉が気道の太さを調節しています。
ムスカリン受容体は、この気道平滑筋の表面に存在する「スイッチ」のようなものです。
なぜこの「スイッチ」が問題なのか?
私たちの体は、自律神経(自分の意思とは関係なく働く神経)によってコントロールされています。
この神経から放出される「アセチルコリン」という物質が、ムスカリン受容体という「スイッチ」を押すと、気道平滑筋は「収縮」します。
つまり、気道がギュッと狭くなります。
ウイルス感染が引き起こすこと
ここが最も重要です。
ウイルス感染により、気道の粘膜が激しく損傷し、強い炎症が起こります。
この炎症反応が引き金となり、神経の働きがアンバランスになります。
その結果、気道平滑筋にあるムスカリン受容体(スイッチ)が、非常に敏感な状態(過敏性が亢進した状態)になります。
すると、普段なら問題にならないような僅かなアセチルコリンの放出や、炎症による刺激で、ムスカリン受容体が過剰に反応します。
「スイッチ」が過剰に押されることで、気道平滑筋が頻繁に、あるいは強く収縮し、気道が狭くなります。
体は「気道が狭い!息苦しい!異物があるかもしれない!」と勘違いし、それを解消しようとして激しい咳(咳反射)を引き起こします。
これが、ウイルス感染による炎症がムスカリン受容体を介して気道過敏性を亢進させ、咳が続くメカニズムです。
長引く咳の治療法
長引く咳の治療は、「咳止め」で無理やり咳を止めることではなく、「咳の原因」となっている「炎症」と「過敏性」を取り除くことが根本的な治療となります。
注意: まず大前提として、咳が3週間以上続く場合は、必ず医療機関(呼吸器内科など)を受診してください。
肺炎、結核、喘息、COPD、逆流性食道炎、心不全、薬剤の副作用など、他の重大な病気が隠れている可能性を否定する必要があるためです。
検査(呼吸器の検査や胸部X線など)で他の病気がないことを確認した上で、感染後咳嗽の治療が開始されます。
気道の「炎症」を抑える治療
気道の「火傷」を治すために、炎症を強力に抑える薬が使われます。
吸入ステロイド薬(ICS)
長引く咳治療の第一選択肢(ファーストライン)となることが多い薬剤です。
気道に直接ステロイドの霧を噴霧し、粘膜の炎症を鎮めます。
飲み薬のステロイドと異なり、吸入薬は気道局所にのみ作用するため、全身性の副作用の心配は非常に少なく、安全に長期間使用できます。
咳過敏症を根本から改善する効果が期待できます。
気道の「過敏性」を抑える治療
過敏になったムスカリン受容体(スイッチ)が過剰に反応して咳が出ているのですから、その「スイッチ」を押せないようにすれば良いわけです。
抗コリン薬
この薬は、ムスカリン受容体(スイッチ)に「フタ」をする役割を果たします。
アセチルコリン(スイッチを押す指)が来ても、スイッチにフタがされているため、押すことができません。
その結果、気道平滑筋は収縮せず、リラックスした状態(気道が広がる)を保つことができます。
これにより、ムスカリン受容体を介した気道の過敏性が抑えられ、咳が劇的に改善することがあります。
抗コリン薬にも、短時間作用型(SAMA)や長時間作用型(LAMA)があり、多くは吸入薬(吸入ステロイドとの合剤もあります)として処方されます。
P2X3受容体拮抗薬 リフヌア(一般名:ゲーファピキサント)
私たちの、のど(気道)には、刺激を感知するための「感覚神経」が張り巡らされています。 この神経の表面には、「P2X3(ピーツーエックススリー)受容体」という、咳のセンサーがたくさんあります。
のどが炎症や刺激を受けると、細胞から「ATP」という物質が放出されます。 このATPは、“咳のセンサー”をONにするための“スイッチを押す物質”のようなものです。
咳が続いている人は、この“咳のセンサー”が非常に敏感になっていたり、数が増えていたりします。
そのため、少しのATP(スイッチ物質)が出ただけでも、センサーが過剰に反応してしまい、「咳をしろ!」という信号が脳に頻繁に送られてしまいます。
リフヌア(ゲーファピキサント)は、この“咳のセンサー(P2X3受容体)”に、ATP(スイッチ物質)がくっつくのをブロック(邪魔)します。
その他の治療
上記の治療で改善しない場合や、症状に合わせて他の治療が併用されることもあります。
鎮咳薬(ちんがいやく)
デキストロメトルファン(メジコン®)や、リン酸コデインなど。
これらは脳の「咳中枢」に作用し、咳反射そのものを鈍くする薬です。
対症療法であり、根本的な原因(炎症や過敏性)は治せません。
漢方薬
日本の「咳嗽・喀痰の診療ガイドライン」でも、一部の漢方薬が推奨されています。
特に「麦門冬湯(ばくもんどうとう)」は、乾いた咳や、痰が切れにくい咳に有効とされ、気道を潤す作用が期待されます。
麦門冬湯だけでは咳がすっきりしない場合は、麻杏甘石湯(まきょうかんせきとう)を加えると咳が止まるときがあります。
気管支拡張薬(β2刺激薬など)
抗コリン薬とは別のメカニズムで気管支を広げる薬です。
喘息が隠れている場合などに併用されます。
参考文献
本記事の内容は、以下の信頼できる医学的情報源および診療ガイドラインに基づいています。
1.日本呼吸器学会.「咳嗽・喀痰の診療ガイドライン 2019」.
日本の呼吸器内科医が参照する、咳と痰に関する最も標準的な診療ガイドラインです。
2.M. A. Morice, et al. (2020). “The Diagnosis and Management of Chronic Cough.” European Respiratory Journal.
欧州呼吸器学会(ERS)による慢性咳嗽の診断・管理に関するガイドライン。咳過敏症候群(CHS)の概念と治療について詳述されています。
3.National Institutes of Health (NIH). “Post-COVID Conditions: Respiratory Symptoms.”
米国国立衛生研究所による、COVID-19後の呼吸器症状(長引く咳を含む)に関する情報。
4.K. F. Chung. (2017). “Muscarinic receptors and airway nerves in chronic cough.” Lung.
慢性咳嗽におけるムスカリン受容体と気道神経の役割について論じた学術論文。炎症がムスカリン受容体の感受性を高める機序について解説しています。
大阪府吹田市長野東19番6号
千里丘かがやきクリニック
有光潤介