2026年6月25日

妊娠と甲状腺機能低下症 ― やさしい解説
1. 甲状腺と妊娠の深い関わり
のどぼとけのすぐ下には、蝶が羽を広げたような形の小さな臓器「甲状腺」があります。ここから出る甲状腺ホルモンは、全身の新陳代謝を整え、脳や胃腸の働きを支え、体温を保つなど、いわば「体のエンジン」のような役割を担っています。
このホルモンは、妊娠中はお腹の赤ちゃんの成長にも直結する重要な存在です。赤ちゃんは妊娠12週頃までは自分の甲状腺がまだ働かず、ホルモンを自力で作れません。ところがこの時期はちょうど脳や神経が急速に作られる大切な時期。そのため赤ちゃんは、必要なホルモンをすべて胎盤を通じてお母さんから受け取ります。つまり妊娠初期のお母さんの甲状腺は、自分と赤ちゃんの「2人分」を一人でまかなうため、分泌量を大きく増やす必要があるのです。
2. 甲状腺機能低下症とは
甲状腺機能低下症は、血液中の甲状腺ホルモンが不足し、体のエンジンがうまく回らなくなる状態です。妊娠中は通常の約1.5倍のホルモン生産能力が求められるため、もともと甲状腺の働きが境界線上だったり、「橋本病」のような慢性的な炎症体質を持っていたりすると、需要に応えきれずホルモン不足になりやすくなります。
この病気には2段階あります。
- 顕在性甲状腺機能低下症:明らかな症状が出る段階
- 潜在性甲状腺機能低下症:自覚症状はないが、血液検査の数値だけが基準から外れている段階
妊娠をきっかけの血液検査で、初めて潜在性の状態に気づく女性も少なくありません。
典型的な症状は、強い疲労感、寒がり、急な体重増加、むくみ、便秘、皮膚の乾燥などですが、これらは「つわり」や妊娠初期の不調と非常によく似ています。そのため自分の感覚だけで気づくのは難しく、医療機関での血液検査が欠かせません。
2026年のATA(米国甲状腺学会)ガイドライン改訂のポイント
2017年以来となる全面改訂版が2026年6月に発表されました。今回の改訂で強調されているのは、過剰な治療を避けるという方向性です。具体的には次のような点が示されています。
- 妊娠中・妊娠前の女性は、地域や医療機関固有の基準値を踏まえて個別に評価すること
- TSH値がやや高めという結果が出ても、すぐに治療を始めるのではなく、まず再検査で確認することが推奨されている
- 甲状腺の働きが正常でTPO抗体(後述)だけが陽性の場合、不妊治療中や流産歴がある女性であっても、レボチロキシンによる治療は推奨されていない
これは「TPO抗体が陽性なら積極的に治療すべき」という単純な話ではなく、むやみに薬を増やさず、必要な人に必要な治療を届けるという考え方への転換だと言えます。
3. 母体と赤ちゃんへの影響
未治療のまま放置すると、母子双方にリスクが及ぶことが多くの研究で示されています。
お母さん側のリスク
- 流産・早産の確率上昇
- 妊娠高血圧症候群
- 常位胎盤早期剥離(胎盤が子宮壁から剥がれる重篤な合併症)
赤ちゃん側のリスク
- 低出生体重児として生まれるリスク
- 脳や神経系の発達への影響
1999年に発表されたハドゥ(Haddow)らの研究では、妊娠中に甲状腺機能低下症を治療せずに過ごした母親の子どもは、7〜9歳時点の知能指数(IQ)が、正常な母親の子どもより平均7ポイント低かったと報告されました。この研究は、世界的に妊娠期の甲状腺管理への関心を高めるきっかけとなりました。
一方で、症状のない潜在性甲状腺機能低下症をどの段階から治療すべきかは長く議論されてきました。2017年のケイシー(Casey)らの大規模臨床試験では、妊娠8〜20週で治療を始めても、子どもが5歳になった時点でのIQに明らかな改善は見られなかったと報告されています。脳発達が最も活発な妊娠ごく初期を過ぎてからの治療開始だったことが一因ではないかと考えられています。
これらの知見を踏まえ、2026年の最新ガイドラインでは、過剰治療による妊婦さんの負担を避けながら、本当に治療が必要な人を見極める方針がより明確になりました。
4. 検査と治療・管理の方法
検査内容
通常の妊婦健診の採血で、次の項目を調べます。
- TSH(甲状腺刺激ホルモン):脳から分泌され甲状腺を促すホルモン
- フリーT4(遊離サイロキシン):甲状腺から実際に分泌されるホルモン
- TPO抗体:甲状腺を誤って攻撃してしまう自己抗体の有無
2026年ガイドラインでは、全妊婦への一律スクリーニングではなく、これまで通りリスクに基づく検査(甲状腺の既往歴、家族歴、流産・早産歴、不妊治療中、30歳以上など)を基本としつつ、地域の医療体制に応じて柔軟に対応することが認められています。不妊治療の現場では、妊娠成立前からの事前検査も広がりつつあります。
治療法
甲状腺機能低下症と診断されても、治療法はシンプルです。不足分の甲状腺ホルモンを、レボチロキシンナトリウム(商品名:チラージンなど)という薬で毎日補います。これは体内に元々あるホルモンと同じ化学構造のため、適切な量を服用していれば母子ともに安全性の高い薬とされています。
治療中は定期的に血液検査を行い、TSHの数値を以下の目標値に収めるように薬の量を細かく調整します。
・妊娠初期:2.5 mIU/L未満
・妊娠中期:3.0 mIU/L未満
・妊娠後期:3.5 mIU/L未満
すでに服薬中の方への注意
妊娠前からこの薬を服用している場合、妊娠が成立すると必要量が急増するため、それまでの量では不足します。妊娠が判明した時点で、速やかに医師の指示のもとで増量することが推奨されています(目安として、普段の服用量の約30%増)。妊娠初期のホルモン不足を短くすることが、赤ちゃんの脳の発達を守るうえで重要だからです。
不安から自己判断で服薬を中止・減量することは、母子双方のリスクを高めるため避けるべきです。用量の調整は必ず主治医に相談してください。
5. おわりに
妊娠と甲状腺機能低下症は、一見つながりが見えにくいテーマですが、赤ちゃんの将来の成長に深く関わっています。2026年のガイドライン改訂が示すように、医療の知見は「どの妊婦さんに、いつ、どれだけ治療すべきか」をより精密に見極める方向へ進化しています。
大切なのは、妊娠前や妊娠初期の早い段階で自分の甲状腺の状態を知り、異常があれば専門医の指導のもとで適切に管理することです。数値を正常範囲に保てれば、甲状腺の病気がない妊婦さんと変わらない、安全で健康な妊娠・出産を迎えることができます。気になることがあれば、主治医や内分泌専門医に相談しましょう。
参考文献
-
American Thyroid Association 2026 Guidelines for Thyroid Disease in Preconception, Pregnancy, and Postpartum. Korevaar TIM, Leung AM, Alexander EK, et al. Thyroid. 2026. DOI: 10.1177/10507256261445624
2017年以来初の全面改訂版。過剰治療を避けつつ、本当にリスクの高い妊婦への早期介入を行う指針を体系化。 -
Haddow JE, et al. Maternal thyroid deficiency during pregnancy and subsequent neuropsychological development of the child. N Engl J Med. 1999;341(8):549-555. DOI: 10.1056/NEJM199908193410801
未治療の甲状腺機能低下症が子どもの神経発達に及ぼす影響を示した、この分野の基礎となる研究。 -
Casey BM, et al. Treatment of Subclinical Hypothyroidism or Hypothyroxinemia in Pregnancy. N Engl J Med. 2017;376(9):815-825. DOI: 10.1056/NEJMoa1606205
妊娠8〜20週での治療開始では、5歳時点のIQに有意な改善が見られなかったとする大規模臨床試験。
大阪府吹田市長野東19番6号
千里丘かがやきクリニック
院長 有光潤介