2026年7月20日

妊娠中・授乳中における炎症性腸疾患(IBD)治療薬の安全性と継続の重要性
妊娠中および授乳中における炎症性腸疾患(IBD)の治療薬について
炎症性腸疾患(潰瘍性大腸炎やクローン病)を抱える女性にとって、妊娠や出産、そして授乳は大きな喜びであると同時に、「毎日飲んでいる薬をこのまま続けても、お腹の赤ちゃんに影響はないのだろうか」と、深い不安を抱きやすい時期でもあります。
まず最も大切な結論から申し上げますと、妊娠中や授乳中であっても、現在使用している炎症性腸疾患の治療薬の多くは継続することが可能です。むしろ、薬への不安から自己判断で服用を中断し、病気の状態が悪化(再燃)してしまうことのほうが、母体と胎児の双方にとって極めて危険であることが、世界中の多くの研究から明らかになっています。
ここでは、炎症性腸疾患と妊娠の関係性、そして各薬剤の安全性について、最新の医学的根拠に基づいてわかりやすく解説いたします。
なぜ妊娠中の治療継続が重要なのか
炎症性腸疾患の患者さんが健康な女性と同じように安全な妊娠・出産を迎えるための最大の条件は、「受胎時(妊娠した時)および妊娠期間中を通じて、病気の状態が落ち着いていること(寛解を維持すること)」です。
もし妊娠中に腸の炎症が活発になってしまうと、母体の栄養状態が悪化するだけでなく、炎症によって生じる物質が胎盤を通じて胎児に影響を及ぼす可能性があります。その結果、早産(予定より早く生まれてしまうこと)、低出生体重児(赤ちゃんが小さく生まれること)、さらには流産などのリスクが有意に高まることが医学的に証明されています。
「薬の副作用が怖いから」と薬をやめてしまい、腸の炎症が再燃してしまうリスクは、薬を継続することによる副作用のリスクをはるかに上回ります。そのため、妊娠中も安全に使用できる薬でしっかりと炎症をコントロールし、母体の健康状態を良好に保つことが、元気な赤ちゃんを育むための最も確実な方法となります。
炎症性腸疾患と妊娠しやすさ(妊孕性)
炎症性腸疾患の患者さんであっても、病気が落ち着いている寛解期であれば、妊娠しやすさ(妊孕性:にんようせい)は健康な方と変わらないとされています。ただし、過去に骨盤内の手術(大腸を全摘出する手術など)を受けたことがある場合は、卵管周囲の癒着などによって妊娠しにくくなる可能性があります。
また、病気の活動性が高い(炎症が強い)状態が続いていると、全身の栄養状態の悪化や炎症性物質の影響によって一時的に妊娠しにくくなることがあります。このことからも、まずはしっかりと薬で炎症を抑えることが、妊娠への第一歩となります。
妊娠中・授乳中も継続して使用できる薬剤(安全性が高いとされるもの)
現在広く使われている以下の薬剤は、妊娠中および授乳中も安全に使用できるとされています。
5-アミノサリチル酸(5-ASA)製剤
メサラジン(ペンタサ、アサコール、リアルダなど)やサラゾスルファピリジン(サラゾピリンなど)は、腸の炎症を直接抑える基本的な治療薬です。これらは胎児の奇形リスクを増加させることはなく、妊娠中も安全に使用できます。授乳中も継続して問題ありません。 ただし、サラゾスルファピリジンを服用している場合は、体内の葉酸の吸収が妨げられるという特徴があります。葉酸は赤ちゃんの神経管閉鎖障害という病気を防ぐために非常に重要な栄養素であるため、サラゾスルファピリジンを使用している方は、妊娠前から妊娠中にかけて、通常の妊婦さん以上に葉酸サプリメントを積極的に摂取することが強く推奨されます。
ステロイド製剤
プレドニゾロンなどのステロイド製剤は、病気の活動性が高まった際に、強い抗炎症作用を期待して使用されます。妊娠中に使用しても、先天性奇形のリスクを明らかに上昇させることはないとされており、病気をコントロールするために必要な場合は使用が推奨されます。 授乳に関しても基本的には安全ですが、高用量のステロイドを服用している場合は、母乳への移行を最小限にするため、服薬から4時間程度あけてから授乳することが望ましいとされています。
免疫調節薬(チオプリン製剤)
アザチオプリン(イムランなど)や6-メルカプトプリン(ロイケリンなど)は、過去には細胞の増殖を抑える働きから妊娠中の使用について懸念する声もありました。しかし現在では、北米や欧州、そして日本のガイドラインにおいても、妊娠中も継続することが強く推奨されています。これらの薬が奇形や早産のリスクを高めないことが大規模な観察研究から確認されており、むしろ薬を中止して病気が悪化するリスクのほうが問題視されています。母乳への移行もごくわずかであるため、授乳中も安全に使用可能です。
生物学的製剤(抗TNFアルファ抗体製剤など)
インフリキシマブ(レミケードなど)、アダリムマブ(ヒュミラなど)、ウステキヌマブ(ステラーラ)、ベドリズマブ(エンタイビオ)などの生物学的製剤も、妊娠中の使用は安全であるとされています。これらは奇形を引き起こす原因にはなりません。 ただし、これらの薬剤(特に抗体製剤)は、妊娠後期(妊娠28週以降)になると胎盤を通過して赤ちゃんへ移行しやすくなるという性質があります。そのため、出産時に赤ちゃんの体内に薬が多く残らないよう、主治医の判断で妊娠後期の投与スケジュールを調整(休薬や間隔の延長)することがあります。 もし赤ちゃんのお薬の血中濃度が高い状態で生まれた場合は、生後6ヶ月間はロタウイルスワクチンやBCGなどの「生ワクチン」の接種を控える必要があります(不活化ワクチンは通常通り接種可能です)。 なお、生物学的製剤はタンパク質でできているため、母乳に移行したとしても赤ちゃんの胃腸でアミノ酸として消化されます。したがって、授乳中に使用しても赤ちゃんへの影響はないと考えられています。
妊娠中・授乳中に使用してはいけない薬剤(禁忌とされるもの)
メトトレキサート
この薬は胎児の奇形や流産を引き起こす危険性が非常に高いため、妊娠中の使用は絶対に避けなければなりません。妊娠を希望する女性はもちろん、男性であっても、妊娠を計画する3ヶ月から6ヶ月前には服用を中止し、別の安全な薬へ変更する必要があります。また、母乳へも移行し蓄積するため、授乳中の使用も禁忌です。
JAK阻害薬およびS1P受容体調節薬
トファシチニブ(ゼルヤンツ)、ウパダシチニブ(リンヴォック)、フィルゴチニブ(ジセレカ)などのJAK阻害薬や、オザニモド(ジポシア)などの新しい飲み薬については、動物実験で胎児への悪影響が報告されているものがあり、人間における安全性のデータも十分に蓄積されていません。そのため、現時点では妊娠中および授乳中の使用は避けるべきとされています。これらの薬を使用中に妊娠を希望する場合は、事前に別の治療薬へ切り替える計画を立てる必要があります。
男性患者の治療薬と妊娠について
男性が炎症性腸疾患の治療薬を服用している場合、メトトレキサートを除き、基本的にはパートナーの妊娠や胎児の健康に対する直接的な悪影響はないとされています。 ただし、サラゾスルファピリジンについては、一時的に精子の数や運動率を低下させ、男性不妊の原因になることがあります。この副作用は不可逆的なものではなく、薬を中止するか、メサラジンなどの別の薬に変更することで数ヶ月以内に回復します。妊娠を希望する男性でなかなか授からない場合は、主治医に相談して薬剤の変更を検討することが大切です。
分娩方法について
炎症性腸疾患があるからといって、必ずしも帝王切開になるわけではありません。基本的には、産婦人科的な理由(逆子や胎児の心拍低下など)に基づいて、経膣分娩(自然分娩)か帝王切開かが選択されます。 ただし、クローン病の患者さんで肛門の周囲に深い病変(痔瘻や膿瘍など)がある場合や、潰瘍性大腸炎で回腸嚢肛門吻合術(Jポーチ手術)を受けたことのある患者さんについては、出産時の会陰裂傷による肛門機能への影響を避けるため、帝王切開が推奨されることが多くなります。この点についても、消化器内科と産婦人科の医師同士の連携が不可欠です。
プレコンセプションケアの大切さとまとめ
炎症性腸疾患の患者さんが安全な妊娠と出産を迎えるためには、「プレコンセプションケア(妊娠前の健康管理)」が鍵を握ります。妊娠が判明してから慌てて薬について悩むのではなく、妊娠を希望した段階で、あるいはさらに前から、主治医と将来の妊娠・出産についてよく話し合っておくことが重要です。
「現在の薬は妊娠中も続けられるか」「妊娠前に病気をしっかり落ち着かせるにはどうすればよいか」を共有し、計画的に準備を進めることで、不安を大きく減らすことができます。
繰り返しになりますが、お母さんの腸が健康であることが、お腹の赤ちゃんの健やかな成長を守る一番の基盤となります。自己判断での服薬中止は絶対に避け、少しでも不安なことがあれば、必ず消化器内科の主治医や産婦人科の医師にご相談ください。正しい知識と適切な治療によって、炎症性腸疾患を抱えていても、元気な赤ちゃんを産み育てることが十分に可能です。
参考文献
1.Pregnancy and Neonatal Outcomes After Fetal Exposure to Biologics and Thiopurines Among Women With Inflammatory Bowel Disease, Mahadevan U, et al. Gastroenterology . 2021 Mar;160(4):1131-1139. DOI: 10.1053/j.gastro.2020.11.038
要約: 米国の大規模な前向き観察研究(PIANOレジストリ)の報告。妊娠中のIBD患者に対する生物学的製剤およびチオプリン製剤の使用が、先天性奇形や早産などの有害事象の増加と関連しないことを証明した重要な文献。
2.The Toronto Consensus Statements for the Management of Inflammatory Bowel Disease in Pregnancy, Nguyen GC, et al. Gastroenterology . 2016 Mar;150(3):734-757.e1. DOI: 10.1053/j.gastro.2015.12.003
要約: 北米を中心としたIBDの妊娠管理に関するコンセンサスガイドライン。妊娠前、妊娠中、授乳期における各治療薬の継続・中止の基準を提示し、疾患活動性のコントロールが最も重要であるという原則を明確に示している。
3.The second European evidenced-based consensus on reproduction and pregnancy in inflammatory bowel disease, van der Woude CJ, et al. J Crohns Colitis . 2015 Feb;9(2):107-124. DOI: 10.1093/ecco-jcc/jju006
要約: 欧州クローン病・大腸炎会議(ECCO)が策定した、IBDの生殖と妊娠に関するガイドライン。男女の生殖能力への影響、妊娠中および授乳期における各種薬剤の安全性について、詳細なエビデンスに基づき推奨事項を網羅。
大阪府吹田市長野東19番6号
千里丘かがやきクリニック
院長 有光潤介(日本消化器病学会専門医・日本消化器内視鏡学会専門医)